有名なダイヤモンド(19) 「コ・イ・ヌール」

Four-Cs

Famous Diamond

「コ・イ・ヌール」 THE KOH-I-NOOR

インディアダイヤモンドの世紀を超えた長旅

重量:108.93カラット

カラー:記載なし

クラリティ:記載なし

カット:ラウンドブリリアント

産地:インド

コ・イ・ヌールがどこから来たものかは誰も知りません。

インドの伝説によれば、太陽の神からの贈物として地球にやって来たとあります。

この古い物語の中では、歴史と伝説が混じりあっています。

アラ ウド ディンが1304年にマルワを征服した時、この「世界中で並ぶもののない宝石」は戦利品の一部でした。

その後200年を経過し1526年にバーブル王がアフガニスタンを一掃しデリーを手に入れるまで、このダイヤモンドは歴史から姿を消していました。

その戦利品の中に「世界全体の1日分の経費の半分」と評価されたダイヤモンドがあったのです。

約2世紀後の1739年にバーブル王の子孫モハメッドシャーは、ナディールシャー擁するペルシャ大軍の前に崩壊し、再びデリーは征服者の前にひれ伏しました。

モハメッドシャーは決してはずしたことのないターバンに石を隠していましたが、彼の愛人の1人が征服者ネーダにそのことを告げ、ネーダは巧みに友情の印として帽子を交換しようと申し入れます。

敗北したムガル人にはこの伝統的な申し入れを断ることができず、彼は羊革の帽子と貴重なターバンを交換しました。

ネーダは部屋へ戻りターバンをほどき石を見つけて「コイヌール(光の山)!」と叫びました。

10年後彼は暗殺者に殺され孫が後を継ぎましたが、時の将軍であり実質の支配者であったアーメッドシャーに宝石は渡ってしまいます。

アーメッドの息子が1793年に死亡し、残された23人の息子たちは、すぐに王位を奪い合うライバルとなりました。

息子の1人がダイヤモンドをもって逃亡しましたが、カシミールの政府に逮捕されます。

息子の妻は君主ランジートシングにカシミールの侵略および夫の釈放と引き換えに「パンジャブのライオン」と言われる石を渡すと約束します。

ランジートシングはその石にどんな価値があるのか尋ねると、夫人は「石をできるだけ遠く東西南北と天に向かって投げ、その範囲に金や宝石を一杯にしてはじめて分かる。」と答えました。

ランジートシングが1839年に死亡する前、彼の僧侶は寺院にこのダイヤモンドを寄付するように勧めます。

表面上は賛成したものの、この時彼は会話ができなくなっており、王の財産管理人は、そのような命令は受けていないと拒否します。

このようにして、1849年に英国東インド会社によりパンジャブが合併されるまで、この石はパンジャブ財宝に残っていましたが、合併後の契約でコイヌールと呼ばれる宝石は、英国の女王に引き渡されるべきであると明記されます。

何も知らない植民地の管理者ジョンローレンスはチョッキのポケットにその石をしまい、そのことを忘れてしまいます。

その宝石が要求されたとき、ローレンスはどこにあるのか分からず家に急いで戻り、召使に尋ねると「チョッキのポケットにガラスが1個入った小さな箱を見つけました。」と答えました。

この石はイングランドに送られ、1850年7月3日コ・イ・ヌールはビクトリア女王に献上されました。

しかし、クリスタルパレスにこれが展示された時、ブリリアントカットになじんでいた民衆は、そのムガールスタイルカットに失望しました。

そのため、1852年186カラットのムガールカットは、108.93カラットのブリリアントに再カットされました。

それでも、注がれた努力と大変な重量損失にもかかわらず、人々は失望したと言われています。

1901年にビクトリア女王が死去して以来、コ・イ・ヌールは王妃のみが身に着けてきました。

1901年エドワード7世が王位に就いた時、初めてその妻アレクサンドラの王冠にはめられて英国の載冠式に現れます。

1910年にジョージ5世の載冠式用としてメアリ王妃のためにリセットされ、1937年ジョージ6世が王位に就いた時、その妻エリザベスのために再びリセットされました。

今日、コ・イ・ヌールはロンドン塔に展示されており、希望する人は誰でも光の山を享受できるのです。

本文の参考資料並びにソース:GIA DIAMOND GRADING